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商品コード 20101030
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カシス
プラム
バラ
スパイス
過去最高得点を獲得
カベルネ比率の高いパヴィヨン・ルージュ
公開媒体 April 2022 Week 1, The Wine Advocate
著者 William Kelley
評価時期 2022年4月
スコア 95
飲み頃 2025-2050
公開媒体 June 2020 Week 3, The Wine Advocate
著者 Lisa Perrotti-Brown
評価時期 2020年6月
スコア 92-94+
飲み頃 NA
シャトー マルゴー
メドック第1級の5大シャトーとして不動の地位に君臨しています。ボルドーワインの中でも最も女性的との評価を受けており「ワインの女王」と呼ばれています。その味わいは圧倒的凝縮感を誇り、全てにおいてパーフェクトな仕上がりです。誰もが一生に一度でも飲みたいと願うワインの一つと言えます。
シャトー・マルゴーの逸話
ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人が宮廷に持ち込んだ事により名声が一気に広まったシャトー・マルゴーですが、その魅力は他の多くの著名人をも惹きつけるものでした。
マルクス主義者で知られるエンゲルスは「あなたにとって幸せとは」と聞かれ「シャトー マルゴー1848年」と答えたました。
「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」「老人と海」等の小説で知られるヘミングウェイもまた、フランス滞在中にはシャトー マルゴーを愛飲し、生まれた孫娘にシャトー由来の名前を付けたのでした。また、ヘミングウェイはこの年に「老人と海」でノーベル文学賞を受賞しています。
映画「ソフィーの選択」では、ケビン・クライン演じるネイサンが「特別の日だから特別のワインを」と用意したのがシャトー マルゴー1937でした。メリル・ストリープ演じるソフィーは、一口含むと思わずこう言いうのでした「もしこの世で聖人のように清く生きて、そして死んだら、天上の楽園で飲ませてくれるのはこのワインよ。」
日本でもマルゴーは登場します。渡辺淳一の小説「失楽園」では、不倫関係にあった主人公とその愛人が最期に、このワインに毒を入れて二人は心中します。
これらのエピソードから、シャトーマルゴーというワインの偉業を強く感じることができます。これからも多くの人々を魅了し、憧れの対象として君臨し続けるでしょう。
大根畑から宮廷へ、そして格付第1級へ
12世紀頃、シャトーマルゴー付近の土地は「ラ モット ド マルゴー(マルゴーの小さな丘)」と呼ばれ、大根や穀物の畑としてメドック内の?せた土地と同じ扱いで利用されていました。16世紀にレスナック家が所有し始めた際に「水捌けの良いこの土地がワイン用ブドウの生産に向いているのでは」と葡萄栽培が始まった事からシャトーの成り立ちです。しかし、素晴らしい味わいは初めからのものではありませんでした。18世紀までは色が薄く水っぽいワインが普通でしたが、その原因が葡萄に付着する朝露である 事に当時の運営責任者ベロン氏が気付いたのです。土壌の重要性についても徐々に解明された事で、ワインの味わいはみるみる成長を遂げます。
18世紀末期に、大富豪ジョゼフ・ド・フュメルがシャトーマルゴーを所有した事で転換期が訪れます。その時代、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人がシャトー・ラフィットを宮廷に持ち込むことでラフィットが有名となりましたが、これと同様の現象を起こそうとした人物がいました。ポンパドゥール夫人の次の愛妾デュ・バリー夫人です。シャトーマルゴーの入手を考えた彼女は、シャトーオーナーフュメル氏の娘マリー・ルイーズに目を付け、義理の弟とマリー・ルイーズ結婚させる事で見事にシャトーマルゴーを手にするのでした。こうしてデュ・バリー夫人の愛飲ワインとしてシャトーマルゴーが名声を得ることとなったのです。しかし、デュ・バリー夫人の栄光の日々もフランス革命により幕を閉じることになります。ルイ15世に先立たれた後も上流社会に留まっていた夫人はシャトーを含む財産を差し押さえられ、ギロチン台へ送られたのでした。義理弟夫婦、フュメル氏も同様に革命により処刑されました。
その後にシャトーを所有したのはド・ラ・コロニラ侯爵です。彼は当時一流の建築家ルイ・コンブに依頼して、エチケットの絵柄にもなっている壮麗なギリシャ神殿風のシャトーの建物を1810年に完成させました。侯爵の死後はスペイン人のアレクサンドル・アグアド、そして
その息子の再婚相手でスコットランド人女性のエミリー・マグドーネルへと所有者がかわっていきます。エミリーはナポレオン三世の妻ユージェニーに侍女として仕えました。そしてナポレオン3世の時代である1855年パリ万国博覧会にて、シャトーマルゴーはシャトーラフィットに次ぐ第1級第2位に格付けされたのでした。
受難の年月の末に
格付第1級の快挙を成し遂げたものの、ナポレオン3世の失脚と共に所有者エミリーはユージェニーとイギリスへ亡命せざるを得ない状況に立たされました。その後もフィロキセラによる病虫害や大恐慌などにより所有者は転々となります。1934年、シャトーはボルドーを代表するネゴシアン(仲買商)ジネステ家の所有となり、当初は投資・改良が行われましたが次第に評判を落とし、1974年の「ワインの大暴落」で大きな痛手を被って手放すことになります。
売りに出されたシャトーを、当初アメリカの酒販業者が買おうとしましたが、フランス政府が「シャトー マルゴーを外国人に売り渡す事は、エッフェル塔やモナ・リザを売却するようなことで、許されない」と介入し、最終的に1977年にギリシャ系アンドレ・メンツェロプーロスにより買い取られました。各国での事業で財を成し、フランスでもスーパーマーケット「フェリックス ポタン」を経営する実業家であったメンツェロプーロスは、シャトー購入後すぐに大規模な投資を行いブドウ畑の改良や醸造設備の刷新を行いました。またボルドー大学の醸造学者エミール・ペイノーを技術顧問に迎え、更なる品質の向上に努めました。その結果は直後の1978年ヴィンテージにすぐに現れ、シャトーマルゴーは
見事に復活を遂げたのです。1979年からはセカンドラベル「パヴィヨン ルージュ デュ シャトー マルゴー」の導入を開始します。1980年のメンツェロプーロスの死後は未亡人ローラ、そして娘のコリーヌ夫妻の所有となります。更に1983年からは支配人ポール・ポンタリエが運営に加わり、シャトーマルゴーのワイン生産体制は現在に至る磐石なものとなったのでした。
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